お金がもらえる殺人ボタン
とつげき東北氏(以下凸さんと表記します)の殺人ボタンの話をご存じでしょうか。
この話は2018年に凸さんがTwitter上で提起し、大きな議論を巻き起こしました。
あるボタンをあなたが1回押すごとに、ランダムに選ばれた日本人1人が刺し殺され、あなたは1万円をもらえるというものです。
あなた及びあなたとある程度関係のある人は選ばれません。
また、この行為がバレることは絶対にありません。
こんなボタンが手に入ったら何回押しますか?と凸さんは問いかけ、Twitter上でアンケートが行われました。
選択肢は、押さない、何度か押す、千回くらい押す、3万回以上押すの4つです。
結果は約半数(47%)の人が押さないを選び、3万回以上押す人が28%いました。
(何度か押す人は14%、千回くらい押す人は11%)
押さないという人は押す人の気が知れないという反応でしたし、押しまくるを選んだ人も押さない人が47%もいることに驚いている様子でした。
ちなみに凸さんの答えは「好きなだけ押せば良い」というもの。
著書*1に「読者諸賢は、涼しい顔をして『殺人ボタン』を押し続けられる程度の知を、本書を通じて持てただろうか」と書かれていることから、好きなだけ押すのが(論理的に考えた場合の)正解だと認識しているようです。
私は押さない派なのですが、当時は凸さんの言っていることに反論できませんでした。
凸さんの論理には隙がなさそうなので、反論できる気がしなかったのです。
ずっとモヤモヤしていたのですが、最近反論の糸口が見つかりましたので、今回の記事で反論を試みます。
命は金銭であがなえるか?
ある一つの問いから始めてみたいと思います。
この問いに対する答えが凸さんと私とで違っていることが、ボタンを押すか押さないかの違いに繋がっていると思うからです。
その問いとは、「人間の命を奪った時、金銭によってあがなえるか?」というものです。
何か人の物を壊してしまった時、お金を払って弁償すればチャラにすることが出来ますよね。*2
人を死なせてしまった場合にも、ある十分な金額のお金を支払ったらチャラにできるでしょうか?
「チャラにはできない」と答える人が多いかと思います。
しかし「チャラにできる」という考え方もあり得るでしょう。
ここで問うているのは個々人のものの考え方です。
あなたは「命は金銭ではあがなえない」という考え方をしていますか?それとも「十分な金額であればあがなえる」という考え方をしていますか?という話です。
重命主義と等価主義
「命は金銭ではあがなえない」という考え方を重命主義と呼ぶことにします。
「十分な金額であれば命もあがなえる」という考え方を、ある量の金銭と命が等価であるという意味で、等価主義と呼ぶことにします。
重命主義では命と金銭は等価ではありませんから、基本的に命には命であがなうしかありません。
一人の死には一人の死をもって償うということであり、二人死なせれば二人の命を差し出すことになります。
なお、重命主義と等価主義は人間の考え方ですから、一方が絶対的な真理というわけではありません。
ある人は重命主義を採っていて、ある人は等価主義を採っているというだけのことです。
どちらの主義を採っているかによって、命が関わる場面での行動が変わってきます。
重命主義か等価主義かが、その人の行動原理になっているということです。
おそらく凸さんは等価主義でしょう。
私利主義と総利主義
人間の行動原理をもう一つ考えます。
ある行動をするか否かを決める時、自分の利害だけを考えて決めることがあるでしょう。
自分の行動によって他者に損害を与えるとしても、自分が少しでも利益になるならその行動をするという戦略です。
これを私利戦略と呼ぶことにしましょう。
簡単に言えば「自己中戦略」ですね。
また別のケースでは、自分の行動によって影響を受ける相手の利害も含めて、総合的な利害を考えて決めるでしょう。
これを総利戦略と呼ぶことにします。
自分が少々損をしても、相手の利益がそれを上回り総合的にプラスになるなら行動する、という利他的な戦略が総利戦略です。
また、囚人のジレンマで全体の利益を考えて黙秘するような戦略も総利戦略です。*3
簡単に言えば「いい人戦略」ですね。
私利戦略を採るか総利戦略を採るかは同じ人でも場面によって変わるでしょうが、相対的に私利戦略を採ることが多い人と総利戦略を採ることが多い人がいるでしょう。
私利戦略ばかりの“自己中な人”を私利主義者と呼び、その行動原理を私利主義と呼ぶことにします。
また、総利戦略が多い“いい人”を総利主義者と呼び、その行動原理を総利主義と呼ぶことにします。*4
殺人ボタンを考える時、人間の命の価値がその家族にとって1万円より安いということは無いでしょう。
それだけでなく、ある人が死ねば友人知人や同僚、雇い主などにとってもマイナスですし、死んだ当人も大きな損をしていますから、殺人ボタンを押せば総合では大きくマイナスです。
したがって総利主義の人は基本的にボタンを押さないでしょう。
凸さんは等価・私利
凸さんは私利主義者だと言って良さそうです。
等価主義で、かつ私利主義ですね。
殺人ボタンで私利戦略を採る場合、遺族や当人、友人などにとっての損失がどれぐらいかは無視します。
自分の利害と無関係ですからね。
その代わりに、その人が死ぬことで自分がどれだけ損をするかを見積もります。
完全に無関係な人であれば影響は無いでしょうから、0円という見積もりになります。
ボタンを押せば1万円が得られ、相手を死なせたことでの損失は0円ですから、差し引き1万円の利益が得られます。
だからボタンを押すわけです。
血も涙も無いと思うかも知れませんが、等価主義かつ私利主義である限り、これは合理的な行動です。
私利のための総利戦略
誤解の無いように言っておきますが、凸さんが私利主義者だとは言っても、親しい仲間内では総利的に振る舞うということが著書に書かれています。
つまり、自分が少し損をしても相手が大きく得をするなら、その行動を実行するのです。
なぜかと言えば、その相手も自分に対して総利的に行動することが期待できるので、自分も得、相手も得というWin-Win状態になるからです。
つまり私利のための総利戦略ということですね。
これも結局のところ私利が目的ですから、私利戦略に含めて差し支えないでしょう。
私利のための総利戦略は私利戦略だと考えます。
私利と総利はどちらが正しい?
私利主義と総利主義はどちらが正しいのでしょうか。
これもやはり個々人の考え方であり、どちらが正しいとも言えません。
……と言いたいところなのですが、進化生物学的に考えれば私利主義が正しいことになります。
動物が生き残って子孫を残すためには私利的に振る舞う必要がありますし、総利などを考えているようでは淘汰されてしまうでしょう。
つまり、今生き残っている動物は私利主義であると言え、人間も例外ではありません。*5
自然状態の中での動物としての人間は私利主義なのであり、私利的に振る舞うことが本能に刻み込まれているはずです。
しかし、ホモ・サピエンスは社会を作りました。
社会状態の中では、総利主義を採ったとしても特別に死にやすくなるわけではありません。
したがって私利主義、総利主義のどちらでも採ることが可能です。
やはり個々人の考え方であり、どちらが正解ということもないわけですね。
本能的には私利主義(小さなコミュニティの中での総利主義)ですから、人間を(国家のような大きな共同体の中での)総利主義者にしようと思ったらなんらかの教育(洗脳)が必要になります。
そのような洗脳によって刷り込まれるものが、道徳とか倫理と呼ばれるものなのでしょう。
重命・私利の場合
人間の行動原理として、重命主義と等価主義、および私利主義と総利主義を定義しました。
どちらをどう選ぶかは個々人の考え方であって、客観的な正解はありません。
総利主義の場合は基本的にボタンを押さないことが分かりました。*6
また、凸さんのように等価・私利の場合はボタンを押しまくることも分かりました。
では、重命・私利の場合はどうでしょうか。
私の考えでは、大半の人は押さないと思われます。
本来なら命でしかあがなえないという自覚がありながら、たった1万円のために誰かを殺すことが出来るでしょうか?
重命主義者が人を死なせた場合、それがバレなくても重い心理的負債を負うことになるはずです。
心理学の言葉で言えば、超自我が自我を罰することになるでしょう。*7
大勢の人間を殺してしらばっくれることが出来る重命主義者は、相当に心臓が強い人だけです。
植松聖の行動原理は?
相模原の障害者施設「津久井やまゆり園」で殺傷事件を起こした植松聖の行動原理は、4つの分類で言うとどうなるでしょうか。
19人もの人を殺すという行動をしたことから、重命主義ではなく等価主義だと分かります。
そして、この行動は自分の利益のために行ったわけではありませんから、私利主義ではなく総利主義だったということになります。
おそらく植松氏は、重度障害者の命の価値を金額で見積もる際、マイナスだと見積もっていたのです。
生きているだけで家族や政府に負担をかけ、一方で何かを生み出しているようには見えませんから。*8
マイナスしか生み出さない人間を消してしまえば、総合では得をすることになりますよね。
植松氏の行動原理は等価・総利です。
等価・私利で人を殺す凸さんと比べた場合どうでしょう。
私利でなく総利を考えて行動している分、植松氏の行動原理の方がまだマシだと評価する人が多いかも知れませんね。
社会制度は重命主義か?
日本の社会制度としては、重命主義と等価主義のどちらを採っているでしょうか。
もし人を一人殺したら死刑と規定されているなら重命主義でしょう。
また、人を一人殺しても遺族に十分な金額を支払えばチャラになり罪にはならないと規定されているなら等価主義でしょう。
どちらも違いますから、日本の社会制度としては重命主義と等価主義のどちらかにはっきり決まっているわけではないようです。
実際、重命主義的な面と等価主義的な面があります。
人を何人か殺せば死刑になることがありますから、やや重命主義的だと言えます。
また、一人殺して何年かの懲役刑を受ける場合、自分の人生の何分の一かを無駄にするわけですよね。
これは命の何分の一かを差し出してあがなったと考えることもでき、やや重命主義的だと言えます。
一方、過失で人を死なせたと判断される場合には金銭で解決が計られることが多いですよね。
特に企業の場合、多数の死者を出してしまっても「経営陣の命であがなえ」という話にはならず、結局は金銭の支払いで解決されます。*9
遺族が金銭を受け取ってしまえば、それ以上文句を言うことは出来ません。
これは等価主義的ですよね。
それから、重度の障害者を政府の支援で生かしている件については、重命主義的だと言えます。
もし政府が重度障害者の命を等価主義的に考えるとしたら、「この重度障害者を寿命まで生かすには3000万円かかる見込みだ。遺族に1000万円か2000万円支払って納得してもらえるようだったら、今すぐ安楽死させよう」という判断があり得るわけです。
しかし重度障害者にも当然生きる権利がありますから、殺して金を掴ませてチャラとはいきません。
そんなわけで、日本の社会制度には重命主義的な面と等価主義的な面があります。
資本主義が推奨する行動原理
資本主義の神は資本(=営利企業)に対してどのような行動原理を勧めるでしょうか。
つまり、資本主義社会の中ではどのような行動原理に従っている企業が有利に生き残り大きくなっていけるでしょうか。
これは簡単です。
企業は常に利益を出し続け自己増殖しなければなりませんから、必ず私利主義で行動します。
自己増殖できない企業は淘汰されますからね。
また、命の価値に関しては必ず等価主義を採ります。
企業が人を死なせるたびに「命であがなわなければ……」などと考えることはあり得ません。
必ず金銭で解決しますし、金銭で解決できるような社会制度を要求します。
資本(企業)にとって、金銭に換算できないような価値は存在しないのです。
と言うわけで、企業は等価主義・私利主義で行動します。
これは凸さんの行動原理と同じですね。
企業が殺人ボタンを入手すれば、凸さんと同じように押しまくるはずです。
完全にノーリスクで利益を増やせるのですから、押さない理由がありません。
国家は何のために作られたのか
国家というものは何のために作られたのでしょうか。
国民を幸せにするため?
たしかに、国民の全員が総利的に振る舞えば、みんなハッピーになるかも知れません。*10
しかし、国家の無い状態から自由な個人がたくさん集まって、皆で合意して国家を作った……なんて話は、にわかには信じられません。
実際の国家の成り立ちを考えれば、国家というものはもっと暴力的に作られたはずであり、その目的は少数の人間が大多数の人間を支配し、貢がせることでしょう。
現代の国家でもその基本は変わらないはずです。
「皆の合意で国家を作った」とか「国民全員が国家の主権者だ」などという話は、後付けで作られた聞こえのいい建て前でしょう。*11
建て前が全く無意味なわけではありません*12が、このような建て前をナイーブに信じるのは知的とは言い難い……と凸さんなら言うでしょうね。
総利主義の中で私利を追え
道徳や倫理は私たちに総利主義で行動することを求めます。
もちろん、私たちの全員が総利的に振る舞えば、みんなハッピーになれるでしょう。
これは国家なるものの建て前でもあります。
しかし、皆が総利的に振る舞っているのであれば、その中で自分だけ私利的に行動すれば利益を最大化できますよね。*13
総利主義の中で私利を追求するのはある意味で裏切り戦略ですが、別にルール違反ではありません。*14
人生がゲームであるならば、皆が総利的に行動している中で自分は私利主義を採るという最適戦略でゲームを攻略することの何が悪いのでしょう?
道徳の教えと資本主義のドグマ
道徳や倫理は「皆が総利主義で行動すれば皆がハッピーになる」と言います。
これは完全なウソではありません。
本当に全員が総利的に振る舞えばそうなるでしょう。
一方、資本主義のドグマは「皆が私利主義で行動すれば皆がハッピーになる」と言います。
これは端的にウソだと言っていいでしょう。
殺人ボタンを手にした凸さんが私利を追求してボタンを押しまくれば、たくさんの人が不幸になることからも明白です。*15
これら2つの矛盾する物語がなぜか両立している世界で私たちは暮らしているわけです。
これらの物語を作ったのはいったい誰なのか?
なんのために?
支配者が考えていること
少数の人間が大多数の人間を支配し搾取しているという国家観が正しいとしましょう。
そうだとすると、資本主義社会の中で支配する側に居る人間が考えているのはこんなことです。
「大衆にはできるだけ総利的に振る舞っていて欲しい。その方がシステムとして安定するし、私の財産が奪われる可能性も小さくなるだろう」
「大衆を総利主義者にするには洗脳が必要だ。道徳や倫理を使って洗脳しよう」
「私自身は私利主義で行動する。手段を選ばずに私利を追求する。私利主義を正当化しておかなければ、大衆が納得しないだろう」
そういうわけで、総利主義と私利主義の双方を正当化する2つの物語が作られたわけです。
そう考えると一応、辻褄は合いますよね。
「君たちは総利主義で生きていたまえ。我々は私利主義で君たちから搾取する。そうすれば皆ハッピーになれるよ」と言われて「みんなハッピーになるっピね!」としか思わないとしたら、ちょっとアホすぎますよね。
凸さんが言いたかったこと
凸さんが言いたかったことはこんなことではないでしょうか。
「君たち、道徳を頭からナイーブに信じてるとしたら、従順な家畜と同じだよ。洗脳されてることに気付きなよ。道徳にとらわれず利己的に行動することを考えないと、損するばっかりだよ」
これが当たっているとすれば、凸さんはなんて良い人なんでしょうか。
だって、皆が総利主義で行動する中で自分だけ私利主義を採るのが一番利益的だと分かっているなら、こんなことをわざわざ教えずに黙っていればいい話ですからね。
凸さんを人でなしのように言う人が居ますが、勘違いも甚だしいですよ。
結局私は殺人ボタンを押すのか
凸さんに反論するつもりで色々と書いてきましたが、反論するどころか代弁者になってしまいました。
やはり、凸さんの言ってることに真っ向から反論できるような点は無さそうです。
しかし、私自身が殺人ボタンを押すかと言えばやはり押さないでしょうね。
重命主義を採っていますから。*16
では、命に関わらないような不幸のボタンだったら押すのか?
やはり、あまり押したくないですね。
人を不幸にして自分が利を得るというのは、あまり気持ちが良くないからです。
私がこのように感じるのは、道徳洗脳から脱し切れていないからかも知れません。
完全に洗脳から脱したらボタンを押すのか、それは分かりません。
現状では「気持ちよくないからボタンは押さない」という感情論レベルのことしか言えませんね。*17
ちゃんと反論するとしたら、他人に親切にしたり不幸にしたりした時に脳の中で何が起きるのかという脳科学的な視点が必要なのかも知れません。*18
*1:とつげき東北『場を支配する「悪の論理」技法』。とても面白い本ですのでぜひ読んでみてください。
*2:もちろん謝罪も必要ですが。
*4:必ず私利戦略を採るという人は居るでしょうが、必ず総利戦略を採る人はまず居ないでしょう。ある程度私利を考えなければ生きていけません。
*5:前述の通り、私利戦略には近親者に対する「私利のための総利戦略」を含みます。
*6:もちろん総利主義者が私利戦略を採ることはあります。
*7:凸さんが定義した言葉を借用するなら、無関係な他者を死なせることには「意味」は無いが、負の「強度」があると言えるのではないでしょうか。脳内に不快感をもたらす化学物質が劇的に放出されるあの瞬間が。
*8:もちろんこれは彼の勝手な見積もりであり、家族にとってはかけがえの無い命なのかも知れません。
*9:もちろん謝罪もしますが、謝るのはタダです。
*10:ソビエトでは全員に総利的に行動させるため政府が命令して国民が従う、という形で共産主義(社会主義)が実装され、失敗に終わりました。
*11:本当に国民が主権者なら、消費税の撤廃すらできないのは不合理です。私たちは上手いこと手懐けられていると考えるべきでしょう。
*12:建て前を振りかざして運動を起こせば、現実を建て前に近づけることも可能です。
仲間が総合での利益を考えて黙秘している時、自分だけ私利のために自白すれば最大の利得を得られます。
*14:私利のために犯罪を犯す場合、バレて捕まったら刑に服する、までがルールです。
*15:皆が“道徳や相互信頼に基づく”私利主義で行動すれば皆がハッピーになるかも知れません。しかし現実はそんな風にはなっていません。世の中にはあからさまな搾取が横行しています。
*16:これも道徳洗脳の影響なのかも知れません。
*17:でも、ある意味では感情論で正解なんですよ。元々の問いでは「あなたは殺人ボタンを押したいという感情になりますか?」と感情を問われていると言えるわけですから。
*18:他人を不幸にした時に不快感を感じる化学物質が脳内に分泌されるとして、それは道徳洗脳による条件反射なのでしょうか?