「もしも、睡眠を売って生活費を稼げるとしたら、君はそうするかね?」
「また唐突ですね。睡眠を売るとはどういう意味ですか?」
「おや、睡眠を売るというのがどういう事態を指すのか、君には分からないのかね」
「誰にも分からないと思いますが」
「そうかね。ではどうだろう、労働を売るというのがどういう事態を指すのか、君は知っているね?」
「もちろん、良く知っています」
「では、それと同じように考えてくれたまえ」
「いや、私にはさっぱり分かりません。ちゃんと説明していただかなければ」
「そうかね、では説明しよう。君は、君に睡眠をさせる権利を商品として他者に売る。買った人が権利を行使すると、君は睡眠しなければならない。つまり君は金銭と引き換えに睡眠をする義務を負い、その義務を果たさねばならない。分かるね?」
「一応、意味は分かりますよ。でも、そんな権利を買う人はいないでしょう」
「ところで、睡眠には成果と言えるものがあるね?睡眠をすると、何か良い結果が得られるはずだ」
「睡眠の成果ですか。頭と身体の疲れが取れて、すっきりします。そういうことですか?」
「そうだ。それで、もし仮に、この成果のすべてが睡眠を買った人のものになるとしたらどうだろう」
「僕が睡眠すると、買った人の頭と身体の疲れが取れて、すっきりするということですか。それなら、僕の睡眠を買う人もいるでしょうね。締め切り前の漫画家が買ってくれそうです」
「そうだろう」
「いや、ちょっと待ってください。その場合、僕は睡眠しても疲れが取れないということですか?」
「そういうことになるね。だから君は、買った人のための睡眠とは別に、自分自身のための睡眠をとる必要があるわけだ」
「なるほど。寝てばかりになりますね」
「さてこれで、睡眠を売るというのがどういう事態を指すのか、分かってくれたと思う」
「分かりました。睡眠それ自体と言うより、睡眠の成果を売るわけですね」
「そういうことだね。では改めて聞こう。もしも、毎日8時間の睡眠を売れば生活するのに十分な収入を得られるとしたら、君は睡眠を売って暮らすかね?」
「いや、とんでもありません。そんなことをしたら、人生の大半が無駄になってしまいますよ」
「そう思うかね。そうだとすると、君は一日8時間の労働を売って生活していると思うが、それは人生の大半を無駄にしていることにはならないのかね」
「そんなことはないでしょう。労働は有意義ですよ」
「有意義とは、どのように?」
「労働は、世の中の役に立ちます」
「それなら、睡眠を売ることだって世の中の役に立つと言えるのではないかね。睡眠をとる時間も無いほど忙しい人の役に立つのだからね」
「それは確かにそうですね。しかし、労働をすればスキルを上げることが出来ますよ」
「スキルとは、労働のスキルのことだね?」
「そうですね」
「労働をすると労働のスキルが上がる、だから労働は有意義なのだ、と君は主張するのかね。そうだとすると、これはおかしな主張ではないかね」
「なぜですか?」
「たとえば、石を高く積み上げるという営みのことを石積みと呼ぶことにしよう。石積みを毎日続ければ石積みのスキルが上がっていくが、だからと言って石積みが有意義だとは言えないだろう」
「たしかに仰るとおりです」
「スキルが上がるのは副産物のようなものであって、有意義だと言うためには他の理由が必要だ。たとえば、石積みはそれ自体楽しいから有意義なのだと言うならまだ理解できる」
「そうですね。労働はそれ自体、楽しくないですしね」
「そこだよ、君。労働は楽しくない営みなのだ。疲れが取れない睡眠はそれ自体楽しいとも楽しくないとも言えないだろうが、労働よりは睡眠の方がマシなのではないかね」
「たしかにその通りです」
「いったい君は、なぜ睡眠を売るより労働を売ることを選ぶのかね。何か理由があるはずだろう。本当のところを教えてくれないかね」
「正直に言えば、労働をしないのは恥ずかしいことのような気がしたのです。つまり、君は何をしているのかと問われて、無職ですとか、睡眠を売ってますとは答えにくいでしょう。これこれの労働をしていますと言えてこそ、世間に対して胸を張れますから」
「これは驚いた。君は、世間体のためだけに、睡眠を売るよりも労働を売ることを選ぶというのかね。世間体のためなら、楽しくない労働を一日8時間、何十年も続けると?」
「いいえ、先生のお話を聞いているうちに、やはり気が変わりました。世間体は気にしないことにして、労働よりも睡眠を売ることにします」
「私もその方が良いと思うよ」
「ところで、睡眠を売るにはどうすればよいのでしょうか?」
「君、睡眠を売るなんてことは実際には不可能なことだよ」
「なんと先生、あなたはひどいお方ですね。労働を売るよりも良い生き方を提示された上で、それは不可能なことだと仰るとは」
「それはすまないことをしたね。しかし、睡眠を売って生活するのが人生の大半を無駄にするような悪い生き方なのだとすれば、労働を売って生活するのはそれよりもさらに悪い生き方なのだ。このことが分かっただけでも良かったのではないかね。労働を売って生きるのが悪い生き方だなどと、今まで考えたこともなかっただろうからね」
「それは仰るとおりです」
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