ザイム真理教
最近、経済アナリストの森永卓郎氏が書いた「ザイム真理教」という本をオーディオブックで聞きました。
この本は非常に面白い本で、日本人の大半がザイム真理教(=財務省)というカルト宗教に洗脳されていて、いわゆる財政均衡主義を盲信している、ということが書かれています。
特に面白いのは、日本専売公社(現JT)主計課の職員だった森永が予算を獲得するために、大蔵省(現財務省)の役人達からの横暴な態度に耐える場面です。
当時の専売公社は大蔵省から予算をもらわなければ鉛筆一本買うことが出来ない組織だったそうで、とにかく頭を下げて予算の承認をもらわないといけなかったとのこと。
「大蔵省の奴隷だった」と森永は言っています。
その森永がひとたび大蔵省から予算を獲得すると、社内に向けては予算を配分する立場となり、横暴な態度をとってしまったと言うんですね。*1
要するに、予算を配分できる立場にある者は非常に強い権限を持つということです。
財務省という組織とその官僚達は、この強い権限を手放したくないし、より強化したいのです。
財務省にとって税収の増加は権限の強化を意味し、逆に税収の減少は権限が弱くなることを意味します。
増税を実現することは財務官僚にとって“手柄”であり、彼らは常に増税をもくろんでいるわけです。
財政均衡主義
さて、ザイム真理教の教義である財政均衡主義とは何でしょうか。
それは、政府の財政は赤字であってはならない、支出と収入を一致させるべきだという考え方のことです。
財政均衡主義者の特徴は、「○○に財政支出すべきだ」という意見があれば必ず「財源はどうするんだ」と言い出すことです。
貴方もそう考えてしまうのではありませんか?
もちろん、家計であったり企業の経理であれば、何かに支出しようとすれば財源が必要になります。
問題は、国家の財政でも同じことが言えるのかという点です。
結論から言えば、通貨発行権を持つ国家の財政の場合は違うんですね。
支出のために“財源”を確保する必要は無いし、財政を均衡させる必要も無いのです。
今回の記事では、財政均衡主義者が言いがちな「財政赤字はダメ」とか「財源はどうする」といったセリフがいかにおかしなことを言っているのか、たとえ話を使って説明していきます。
数人の村
一人の村長と数人の村人がいる村を考えます。*2
この村の政府、すなわち村役場を運営しているのは村長であるムラタです。
ムラタは村の行政サービスを提供します。
具体的には、水路の維持管理などをやっていると思ってください。
村長ムラタは、公務員として働く自分自身に村政府から給料を渡します。
具体的には、年に一枚の買い物券を渡すとしましょう。
この買い物券は村政府が発行する紙切れであり、村長が印刷するだけで作ることが出来ます。*3
村長ムラタは政府の仕事として買い物券を一枚印刷して作り、公務員としてのムラタに渡すわけですね。
買い物券をもらったムラタは、これを米農家のコメダのところに持っていきます。
そうすると、コメダは買い物券と引き換えに米を一俵渡してくれます。*4
この米で、ムラタは一年間生活できるわけです。
以上をケース1とします。
財政収支とは
ケース1の財政収支を考えましょう。
政府の収入は無し、支出は買い物券一枚なので、買い物券一枚分の財政赤字です。
これは悪いことなのでしょうか?
政府にとって買い物券は、印刷しただけの紙切れです。
そして実際に行われたことは、コメダが持っていた米一俵がムラタに渡されたということです。
要するに、政府はコメダに米一俵をムラタに渡せと命令し、それが実行されたのです。
タダで渡せと言ったのではないですよ?
コメダの手元には買い物券が一枚残るのですから、コメダが損をするわけではありません。
買い物券が村役場に持ち込まれたら金銀と交換しなければならないということもありません。
どうも、別に悪いことは起きてないような気がしますね。
買い物券の収支って、均衡させる必要があるんでしょうか?
実物の収支を考える
視点を変えて、ケース1の政府の収支を実物で考えてみましょう。
村の政府は、村民から何か実物を徴収し、それを村民に分配しています。
ケース1の場合、徴収しているのは米一俵であり、分配したのも米一俵です。
また米以外にも、徴収され分配されているものがあります。
それは、村長の労働。
村長ムラタの労働一年分が徴収されていて、その結果としての行政サービスが村人全員に対して分配されています。
まとめると以下のようになります。
政府が徴収したもの:米一俵、ムラタの労働一年分
政府が分配したもの:米一俵、行政サービス一年分
均衡していますね。
政府が何かを貯め込んだわけでもありませんから、均衡して当然です。
税金の役割
ここまで書いておいてなんですが、実はケース1は上手くいきません。
なぜかと言うと、コメダにとって買い物券はただの紙切れにしか見えないからです。
買い物券を村役場に持っていけば金銀と交換してくれるというならともかく、そういう交換はしてもらえません。
コメダとしては買い物券が欲しいとは別に思えませんので、ムラタとの取引に応じないでしょう。
ではどうすれば良いのか。
ここで税金が登場するわけです。
政府がコメダに対して「買い物券一枚を納税せよ」と命令すると、コメダはどうにかして買い物券を入手しなければならなくなります。
その結果、ムラタとの取引に応じて米一俵を渡してくれるようになるわけです。
この状況をケース2とします。
<ケース2>
- 政府は村長ムラタに給料として買い物券二枚を渡し、うち一枚は税金として徴収する。*5
- 政府は米農家コメダに買い物券一枚を納税するように命令する。
- コメダは買い物券一枚をムラタから受け取り、引き換えに米一俵を渡す。
- コメダは政府に買い物券一枚を納税する。
政府の収入:買い物券二枚
政府の支出:買い物券二枚
財政収支:均衡
これは財政均衡主義者の皆さんもにっこりですね。
実物の収支も考えておきましょうか。
政府が徴収したもの:米一俵、ムラタの労働一年分
政府が分配したもの:米一俵、行政サービス一年分
ケース1と変わりありませんね。
当然、これも収支が均衡しています。
再び、財政赤字を考える
さて、この村には他にカリヤという村民がいます。
カリヤは動物を狩るなどして自給自足していて、米を手に入れる際も肉をコメダのところに持っていき物々交換をしていました。
ところが、ある日カリヤは大怪我をしてしまい、狩りが出来なくなったとしましょう。
カリヤは村役場に行き、生活保護を申請します。
村政府は生活保護費としてカリヤに買い物券を年一枚支給することにします。
そうすると、当然“財政収支が悪化”し、“財政赤字に陥って”しまいます。
<ケース3>
- 政府は村長ムラタに給料として買い物券二枚を渡し、うち一枚は税金として徴収する。
- コメダはムラタに米一俵を渡し、引き換えに買い物券一枚を受け取って政府に納税する。
- 政府は村民カリヤに生活保護費として買い物券一枚を支給する。(非課税)
- カリヤは買い物券一枚をコメダに渡し、引き換えに米一俵を受け取る。
政府の収入:買い物券二枚
政府の支出:買い物券三枚
財政収支:買い物券一枚分の財政赤字
政府が徴収したもの:米二俵、ムラタの労働一年分
政府が分配したもの:米二俵、行政サービス一年分
財政均衡主義の方はこう言うでしょうか。
「おいおい、生活保護を出すのはいいけど、財源はどうするんだよ?」
実に言いそうなセリフですね。
でも、ちょっと待ってください。
財源って、何のことを言ってるんですか?
もしかして、買い物券のこと?
買い物券は印刷するだけで作れるんですけど。
それとも実物の話?
カリヤに渡す米一俵がちゃんとあるのかどうかを気にしてるんですか?
それだったら安心してください。
コメダは村民みんなが食べていけるだけの米を作っていますので。
カリヤが元気だった時も、カリヤの分の米は作っていたし、肉と交換で渡していたんです。
ちゃんと実物はあります。
もう一度聞きますよ?
「生活保護を出すための財源はどうするんだ」って貴方は言いましたけど、財源って何の話ですか?
米のこと??買い物券のこと???
……いかがでしょう。
「財源はどうする」というのがいかにおかしなセリフであるか、感じ取って頂けたでしょうか。
増税すべきなのか
改めて、ケース3を考えます。
政府の買い物券収支は収入が二枚、支出が三枚、つまり一枚分の赤字です。
この財政赤字を見れば、財政均衡主義者は「増税すべきだ」と言うでしょう。
この「増税すべきだ」もまた、おかしなセリフではありませんか?
増税をして買い物券の回収を一枚増やすことによって、どんないいことがあるというのでしょう。
たとえばコメダから徴収する税金を一枚から二枚に増税すればたしかに財政は均衡します。
これをケース4としましょう。
<ケース4>
- 政府はムラタに給料として買い物券二枚を渡し、うち一枚は税金として徴収する。
- ムラタは買い物券一枚をコメダに渡し、引き換えに米一俵を受け取る。
- 政府はカリヤに生活保護費として買い物券一枚を支給する。(非課税)
- カリヤは買い物券一枚をコメダに渡し、引き換えに米一俵を受け取る。
- 政府はコメダから税金として買い物券二枚を徴収する。
政府の収入:買い物券三枚
政府の支出:買い物券三枚
財政収支:均衡
政府が徴収したもの:米二俵、ムラタの労働一年分
政府が分配したもの:米二俵、行政サービス一年分
ケース3と比べてケース4は何が違うのか。
ケース3でコメダの手元に残っていた買い物券一枚が、ケース4では消えてしまうだけのことです。
それによって誰が嬉しいのか。
誰も嬉しくないでしょう。
こんなことは全くする必要が無いのです。
増税の対象となる村民に対するイジメみたいなものでしょう。
日本において「財源が足りていない!増税すべきだ!」と言うのはこれと同じことを言っているのです。
いいですか?
カリヤが必要としている米一俵は、元からコメダの倉庫にあるんです。
カリヤが狩りをしていれば、肉と交換で受け取っていました。
狩りが出来なくなって困窮したら、その分の米がカリヤに渡るように政府が取り計らえばいいだけなんです。
繰り返しますが、タダで渡しなさいとコメダに命令するのではないですよ?
買い物券をカリヤに支給し、それでコメダから買えるようにしてやればいいんです。
何も問題ないでしょう。
日本における生活保護も同じことです。
国民全員が食べていけるだけの食料(およびその他の生活必需品)は、十分に準備できているんです。*6
あとは、それが困窮した人の手元にも行くようにしてあげればいいだけ。
買い物券を発行して渡せばいいのです。*7
財政赤字=買い物券の発行超過
財政赤字というのは、政府の収支を買い物券で考えた時、支出が収入を上回ったということです。
政府が支出したということは、買い物券を発行して村民に渡したということ。
政府に収入があったということは、村民から買い物券を回収したということ。
つまり、買い物券の回収よりも発行の方が多かったことを「財政赤字」と呼んでいるんですね。
財政赤字は言い換えれば「買い物券の発行超過」なんです。
「財政赤字」と言えばネガティブなイメージですが、「買い物券の発行超過」と言えばかなりポジティブなイメージになりますよね。
実際、買い物券の回収よりも発行の方が多ければ村民の手元にある買い物券が増えるわけですから、これは村民にとって喜ばしいことです。
買い物券が少ないよりも多い方が買い物の決済がスムーズに出来ますし、貯金することも出来ます。
私たちも財政赤字のニュースを聞いたら「ああ、買い物券が発行超過になったんだな。お金が増えて良かったな」と思えば良いでしょう。
国債による調達とは
ケース3は買い物券一枚分の財政赤字です。
この赤字分を増税ではなく村債(=現実世界での国債)で“調達”することを考えてみましょう。
村債というのも村政府が印刷するだけで発行できるものであり、ある時期が来れば買い物券(という紙切れ)と交換される紙切れです。
いわば、買い物券交換券です。
<ケース5>
- 政府はムラタに給料として買い物券二枚を渡し、うち一枚は税金として徴収する。
- コメダはムラタに米一俵を渡し、引き換えに買い物券一枚を受け取って政府に納税する。
- 政府はカリヤに生活保護費として買い物券一枚を支給する。
- カリヤは買い物券一枚をコメダに渡し、引き換えに米一俵を受け取る。
- 政府は村債一枚を発行し、コメダが持っている買い物券一枚と交換する。
政府の収入:買い物券二枚(税収分)+一枚(村債分)
政府の支出:買い物券三枚
買い物券(という紙切れ)の収支:均衡
(村債を含めた)紙切れの収支:村債一枚分の発行超過
ケース3とケース5では、実物の流れは変わりません。
違うのは、村政府が発行するものがケース3では買い物券一枚であるのに対し、ケース5では買い物券交換券一枚であるという点。
そして、村民側で増える金融資産がケース3では買い物券一枚であるのに対し、ケース5では買い物券交換券一枚である点。
要するに、ほぼ同じと言っていいのです。*9
買い物券を一枚発行して支出するのも、買い物券交換券を一枚発行して(それを買い物券一枚と交換して)支出するのも同じことです。
違うのは、金利をプレゼントするかどうかだけ。
「国債は不要だ」と主張する論者がいますが、それはこういうことなのです。
国債を発行するまでもなく、買い物券を発行して支出することは可能なのであり、買い物券を余らせている人(富裕層)に金利をプレゼント(して格差の拡大を助長)する必要も無いということです。
現実の財政ルール
さて、ここまで書いておいてなんですが、現実の国家財政はこの村のように実行されてはいません。
何が違うのか。
現実の財政では、買い物券を発行して支出する、という風には出来ないのです。*10
なぜか。
そういうルールにしてあるからです。
実際には出来るのに、自分で自分を縛るようなルールによって、出来なくされています。
現実の財政では、政府預金、つまり政府の財布のようなものを想定し、財布の中に買い物券を入れてから支出する、という風に財政が行われています。
つまり、いったん財布の中に買い物券を入れなければ支出できないルールなのです。
家計や企業の会計と同じですね。
これに対し、たとえ話に出した村では、政府の財布という概念がありません。
政府は買い物券を発行することで支出ができるし、税金として回収した買い物券は捨ててしまう*11のですから、財布という概念を必要としないのです。
私たちは、政府にも私たちと同じように財布がある(財布に入っている分しか支出できない)という考え方を植え付けられていて、この考え方に沿うように現実の財政ルールが作られているために、政府の財政について正しく考えることが出来なくなっているわけです。
おサイフ脳を脱却せよ
「政府にも財布があり、財布に入っている分しか支出できない」という考え方や、それを素直に信じている人のことを、仮に“おサイフ脳”と呼ぶことにしましょう。
ザイム真理教の信者である日本人の大半は、要するにおサイフ脳なのです。*12
もちろん、家計や企業の会計を考える時にはおサイフ脳で問題ありませんし、むしろおサイフ脳で考えるべきです。
私たちはお金を発行できないので、なんらかの方法で稼いでから(あるいは借りてから)支出するしかありませんからね。
しかし、通貨発行権を持った政府の財政を考える時には、おサイフ脳では正しく考えることが出来ないのです。
「財政赤字」と言えばネガティブなイメージがありますが、それは買い物券の発行超過のことであり、私たちの使えるお金が増えるのですから、ポジティブに捉えて良いことです。*13
私たちは、財政均衡主義という洗脳やおサイフ脳から脱却して、政府の財政について正しく考えられるようになる必要があるでしょう。
そうでなければ、自分たちの生活が苦しいにもかかわらず「消費税の増税は仕方ない」などとおかしな考え方をすることになるのです。
そんなことでは、自分たちの権限を維持・強化したい財務省の役人達の思うつぼでしょう。*14
生活が苦しいなら「減税しろ」とか「もっと国民の生活を援助しろ」などと主張するのが当たり前ではありませんか?
もし貴方が「増税されても仕方ない」などと考えているのであれば、自分が洗脳されているという自覚を持った方が良いでしょう。
*1:忘年会をセッティングして森永を接待しようとした関東支社の予算課職員に対して、「行ってもいいけどさぁ、オンナ連れてこいよな」と言ったそうです。
*2:ここではもちろん、国家を村にたとえています。
*3:もちろん買い物券は紙幣のことです。紙幣は政府(日銀を含めた統合政府)が印刷するだけで作ることが出来る買い物券にすぎません。紙幣が単なる買い物券以上の何か、有限で貴重な宝物のように見えているとしたら、それは勘違いです。
*4:ここでは食料を米にたとえています。
*5:給料を買い物券一枚のままして無税でもいいのですが、それでは公平感に欠けるでしょう。
*6:日本の経済は、生活必需品を十分に生産した上で、さらに生活便利品、娯楽品、贅沢品を生産しています。もちろん食料を全て国内で自給しているわけではありませんが、輸入する食料(や原材料など)に相応する工業製品等を生産し、交換しています。
*7:生活保護費を受給している人を見て「俺が納めた税金を使いやがって」という風に考えるのは誤りです。実物で考えれば、保護費が支給されなければ捨てることになっていたであろう食料が困窮者の手元に渡されただけのことです。貴方が税金を払おうが払うまいが関係ありません。
*8:財政収支というのは普通プライマリバランスのことを指し、プライマリバランスでは債権による調達や償還を除外します。
*9:村債はすぐには買い物に使えない点が違っていますが、そもそも村債を買う人は買い物券をすぐには使わない人なのですから、買い物券で持っていても村債で持っていても同じことです。
*10:政府が発行した国債を日銀が買い取って、そのお金で支出した場合は買い物券を発行して支出したと言えます。しかしこれは財政ファイナンスと呼ばれ、やってはいけないことになっています。実際にはそれと同じことをやっていると言えるのですが。
*11:別に捨てずに取っておいて再利用しても構いませんが、政府にとって買い物券は用済みの紙切れなので捨てて構いません。自分が発行した肩叩き券が使用されて手元に戻ってきたら、捨てて構わないのと同じことです。
*12:財政均衡主義を批判している森永氏でさえ、おサイフ脳からは逃れられていません。
*13:もちろん、だからと言って無制限にお金を発行して良いという話ではありません。
*14:彼らにとって、お金は「印刷するだけで作れる買い物券」であってはなりません。有限で貴重な宝物のように人々に思われているからこそ、それを配分できる権限が強大なものになるのです。