資本のための経済学よ、さらば
人間の経済は取引の集積か
前回、資本制経済の基本単位は“取引”だという話をしたが、その根拠として「企業の経済は取引の集積だからだ」と説明した。
鋭い読者の方はこの説明に違和感を感じただろう。
その通り、経済は企業だけで成り立っているわけではないのだから、この説明では不十分だ。
この点を改めて考えてみよう。
人間も含めた経済を考える時、その基本単位は取引だと言い切って良いのだろうか?
たしかに人間も取引をする。
自らの労働力を企業に売って賃金を得て、食料や衣服を購入し、家賃を支払って住居を確保する。
どれも商品と金銭の交換であり、取引だ。*1
では、ある人間の経済はその人が行った取引の集積だと言って問題ないのだろうか?
取引しない人を考える
取引を一切しない人、というのを考えてみよう。
完全に自給自足の生活をしている人は、取引をせずに生きていくことが出来る。
この人の経済はゼロなのだろうか。
経済学的にはゼロだ。*2
GDPのような取引を集計した指標には全く影響しないのだから。
では、この人は世の中に全く影響を与えないのだろうか?
そうではないだろう。
野菜が多く採れたら近所の人にお裾分けするかも知れない。
歌が上手で、皆に聞かせて心を癒やすかも知れない。
頼まれて子守ぐらいはするかも知れない。
どれもお金を貰わなければ取引ではないし、GDPにも影響しない。
しかしそうだとしても、世の中に影響を与えていることは確かだ。
この人の経済がゼロだとは言えないだろう。
人間にとっての経済とは
では、どう考えればいいだろう。
私が考えるに、人間の経済の基本単位は“営み”だ。
人間は一日24時間、なんらかの活動をしている。
朝食を作り、それを食べ、通勤し、労働し、酒を飲み、本を読み、テレビを見て、眠る。
これら一つひとつが営みだ。
もちろん、歌を歌うのも子守をするのも営みである。
このように営みというものを定義した上で、私たちが何を望んでいるのかを考えてみよう。
私たちは、企業の利益が増大することを望んでいるのではなくて、人間の営みをより良いものにすることを望んでいるのではないのか。
また、ある人の人生とは、生まれてから死ぬまでの全ての営みを積み重ねたものだと言える。
良い人生とは、取引でたくさん金を稼いだ人生のことではなく、より良い営みを積み重ねた人生のことを言うのではないのか。
そうだとすれば、基本単位を営みとし、営みの集積としての“人間の経済”というものを考えることには意味がある。
取引と営みの違い
私の言う取引と営みの違いを整理しておこう。
取引は所有権を移転する行為だ。
商品と金銭を交換する取引では、商品の所有権を移転し、取引価格分の金銭の所有権を逆向きに移転している。
一方、営みは所有の概念とは関係ない、人間が行う活動だ。
太古の人間も現代の人間も、1日24時間なんらかの営みをすることに変わりない。
営みは大昔から行われていた人間の活動だが、取引はせいぜい数千年前に生まれた新しい概念だ。*3
一つひとつの営みにはある程度の時間がかかる。
一方、所有権の移転はある一時点で起きることなので、取引それ自体には時間はかからない。*4
人間は営みと取引の両方を行うが、資本(=企業)それ自体は取引しか行わない。
資本がワインを味わいながら飲むことはないし、歌を歌ったりもしない。
資本は人間に労働や経営という営みをさせる。
人間は営む存在であり、資本は営まない存在、かつ営ませる存在だ。
なお、私が資本と言っているのはマルクスの言う資本、つまり無限に自己増殖する価値の運動体のことだ。
イメージが沸かないという人は、資本をスライムというモンスターにたとえて説明した記事を以前書いたので参照して欲しい。
経済学は誰のため
人間は労働力を商品として売り、必要な商品を買って使用・消費することで営むことが多い。
しかし、必ずしも営みに商品が必要なわけではない。
たとえば、歌を歌ったり子守をするだけなら商品を買う必要はない。
人間にとって取引は必須のものではなく、取引をしなくても生きることは可能だ。*5
一方、資本にとって取引は必須だ。
資本は基本的に取引の繰り返しで利益を得て価値を増殖していくし、取引をしない資本などあり得ない。
そして資本は労働や経営以外の人間の営みには興味が無い。
ある商品を人間に売ってしまえば、その商品で人間がどんな営みをしようが資本にとってはどうでも良い。*6
結局のところ、取引を基本単位として経済を見るということは、資本の立場から経済を見るとこういう風に見えるということだ。
いま世界を席巻している新古典派などの経済学は資本のための経済学であって、人間のための経済学ではない。
商品に支払う金額と幸福感の関係
もちろん経済学は「人間の営みはどうでもいい」などと直接的には言わない。
経済学では、経済が成長していれば、つまりGDPが年々増大していれば人々は年々豊かに(あるいは幸福に)なっていると考える。
人間の営みを見ずに取引ベースで経済を見ているのに、どうしてそんなことが分かるのか。
それは、消費のために支出した金額の分だけ消費者は効用(幸福感、満足感)を得ると経済学では想定しているからだ。*7
具体的に言えば、千円のラーメンを食べた人は千円分以上の幸福感、満足感を得ているだろうということだ。
これは一見正しい想定のように思える。
特に、必需品を買って消費する場合にはそこそこ正しいと言えそうだ。
しかし、金持ちがぜいたくな消費をする場合、得られる効用が支払った金額よりずっと小さいことが多い。
たとえば、キャバクラやホストクラブで100万円支払ってシャンパンタワーを入れるとしよう。
その時に得られる幸福感が100万円分ということはおそらくないだろう。*8
仮に100万円分の幸福感を感じると主張する人がいたとしても、1000万円払ってシャンパンタワーを入れる人が得る幸福感がその十倍になることは考えられない。
要するに、シャンパンタワーに大金を払う人は不合理な(損になる)行動をしている。
損になるような取引が出来ることを示すことで、いくらかの優越感を得るのだ。
このような消費行動を、「有閑階級の理論」を書いたソースティン・ヴェブレンは「衒示的消費」と呼んだ。
要するに、財力の誇示、見栄の張り合いだ。
財力を誇示するために大金を支払う場合、金額分の効用は得られない。
このような消費行動がある限り、GDPが成長していても人間が幸福になっているとは言えない。
取引を集計したGDPでは、人間の幸福(どれぐらい良い営みをしているか)は分からないのだ。*9
人間のための経済
取引ベースの経済学は資本のための経済学だ。
資本のためではなく、人間のための経済を考えるとすれば、営みを基本単位として考えるのが良いだろう。
営みには良い営みと悪い営みがある。
良い営みとは楽しい、嬉しい、面白いと感じるような営みのことで、悪い営みとは苦しい、辛いと感じるような営みのことだ。
ある人の人生は、悪い営みをする時間を減らし、良い営みをする時間を増やすことでより良いものになる。*10
もちろん、様々な営みの良さの程度を数値化することは出来ない。
人によって感じ方が違うし、そもそも人間は営みの良さを数値で考えたりしないからだ。
しかし、ある人が二つの営みを比較してどちらがより良いかを判断することは出来る。
たとえば、会社で定時後に飲み会に誘われたとしよう。
飲み会に参加するか、帰宅して自分の趣味に時間を使うか、どちらがより良い営みであるかを判断して決めれば、より良い人生を生きることが出来るだろう。
社会全体をより良くするには
前節に書いたのは一人の人間の経済(=人生)をより良くする方法だった。
同様に、社会全体でも悪い営みを減らして良い営みを増やすことが出来れば、皆がより幸福になるはずだ。
社会全体の営みをより良くするにはどうすれば良いのか。
一人ひとりが個人的な良い営みをするのも良いのだが、それよりもずっと良いのは他者に貢献するという営みだ。
他者を助けたり、楽しませたり、喜ばせたりすることで、自分も嬉しい気持ちになることがあるだろう。
この場合、自分が良い営みをすると同時に、他者の営みをより良くすることができる。
金銭的な見返りが無くてもボランティア活動に精を出す人がいるのは、このことに気付いているからだ。
他者に貢献する営みはボランティア活動に限らない。
たとえば、お笑い好きな二人組が友人を集めてコントを披露し、爆笑を取ったとしよう。
この二人は爆笑が取れたことで快感を感じたし、友人達は面白いコントを見て大笑いするという良い営みができた。*11
この営みは素晴らしく良い営みだったということになる。
他者に貢献する営みは、自分のためだけにする営みより何倍も良いものになり得るのだ。
そうだとすると、皆が他者に貢献する営み(=利他的な行動)をするようにすれば、社会全体が幸福になるということになる。
「利他は善」v.s.「強欲は善」
皆が利他的な行動をすれば皆が幸せになる。
シンプルに言えば「利他は善」ということになる。
考えてみればこれは当たり前のことだ。
なぜこのような当たり前の教訓を導くために長々と理屈をこねなければならなかったのか。
それは、現実の私たちが「利他は善」思想よりも「強欲は善」思想の方に強く影響を受けて行動しているからだ。
私たちは基本的に自分の利益のために行動する*12し、資本がほしいままに利益を追求することを許しているどころか賞賛すらしている。
前回の記事で書いたように、資本が利益を追求すれば弱者から搾取することになるのだから、資本の活動を自由なものにすればするほど大多数の人間は不幸になる。
私たちは資本というモンスターを自由にさせてはいけないのだ。
まとめ
営みを基本単位として経済を見れば、必然的に「利他は善」という思想に行き着く。
この思想は人間を幸福にするのに役立つ。
一方、営みを無視し、取引を基本単位として経済を見れば、必然的に「強欲は善」という思想に行き着く。
この思想は資本が自己増殖しやすい環境を整え、人間を不幸にするのに役立つ。
経済学は、資本にとって都合の良い教義を布教する宗教だ。
この宗教の高僧が何かご神託を告げていても、耳を貸してはいけない。
人間の営みに目を向けよう。
*1:部屋に1ヶ月住む権利という商品を買う際に支払う代金が家賃だ。
*2:今回も前回に引き続きスミス経済学を批判している。
*3:所有や金銭の概念とほぼ同時に生まれたと考えられる。
*4:店に行って商品を選び、レジに持っていくのは営みだ。店員がレジを打つのも労働という営みだ。その際に起きる所有権の移転が取引であり、これには時間はかからない。
*5:この資本主義社会で取引を一切せずに生きるのはかなり難しいが。
*6:もちろん商品を売るためには「この商品を買えばこんな素敵な営みが出来ますよ」というアピールはする。それは人間の幸福を願ってのことではなく、売るためにそうしているだけだ。
*7:誰もが合理的に行動すると仮定しているので、500円分の効用しか得られない商品に1000円支払うような損になる(不合理な)行動はしないはずだ、ということ。
*8:100万円使って親しい相手と海外旅行をする時に得られる幸福感と比較してみよう。
*9:もちろん、GDPに全く意味が無いわけではない。たとえば先進国のA国と後進国のB国で一人当たりGDPを比較して、A国の方がずっと高かったとすれば、B国民よりA国民の方が豊かで幸福だと言えるだろう。しかしそれは単に先進国が後進国から搾取していることを示しているにすぎないのかも知れない。搾取する側が豊かなのは当然の話だ。
*10:営みの量(=時間)を年々増やしていくことは出来ない。去年は1日24時間しか営めなかったが、今年は4%ほどアップして1日25時間営めるようになった、などということは起きない。
*11:笑うことはそれ自体楽しいし、健康にも良い。
*12:他者に貢献するにしても労働という形で嫌々やることが多い。その場合、最終的に貢献した相手から感謝されることが少ないため喜びも少ない。