出発点
ジョン・ロックさん。
ロックさんは所有権というものを正当化していますが、それについてちょっとお聞きしたいことがあるんです。*1
どんなロジックで所有権を正当化しているのか、改めて説明してもらえますか?
人間は神から、世界を人間の共有物としてさずけられた。それと同時に、世界を利用するための理性もさずけられた。*2
ふーむ。
人間だけが特別な存在で、それ以外の万物は神から人間への贈り物だという世界観ですね。
ロックさんはキリスト教徒ですし、キリスト教社会の中で育ったのですから、そういう考え方になるのも仕方ありませんね。
百歩譲って、そこは認めるとしましょう。
大地に生る野生の果実と、大地の育てる野生の獣は(中略)どれもこれも人類の共有物である。大地の恵みがこのように自然の状態にある限り、本来、何人もそれを個人的に支配し、他の人々を排除する権利を持たない。
大地の恵みはどれも人類の共有物であって、それを独占する権利は誰にも無いと。
分かりますよ。
しかし大地の恵みは、人間の利用のために供されているのである。したがって、事の順序からして、まずそれを何らかの形で私的に専有する手立てがほどこされるはずである。*3
えっ?
ちょっと何を言っているのか分かりません。
もう少し具体的に言ってもらえますか?
所有と占有の違い
未開のアメリカ・インディアンは囲い込みということを知らず、昔ながらに土地を共同で利用している。だが、インディアンの食糧となる果実や鹿肉は、それに先だって当人のものとならねばならない。*4
うーん、「当人のもの」って、「当人の所有物」という意味で言ってますよね?
ロックさん、「所有」と「占有」をごっちゃにしてませんか?
所有というのは、人間が定めたルールであって、自然界には無いものです。
動物は所有しません。
当たり前ですよね。
一方、占有は自然界にもあります。
ゴリラがリンゴを手にしたら、そのゴリラはリンゴを占有したということです。
所有したのではありません。
何が違うのかというと、所有を守るのは法律と政府、すなわち国家の力ですが、占有を守るのは自分自身の力だということです。
ロックさん自身、「法律の制定は、所有権を調整、保全することを目的としている」*5と書いてますから、分かってますよね?
すなわち、当人と十分に一体化しなければならない。こうして他人の手出しする権利が完全に消滅して初めて、果実や鹿肉は、当のインディアンの生命を維持するのに有益な物となるのである。*6
いやいや、インディアンが単に果実や鹿肉を占有して、食べればいいだけですよね。
ゴリラがリンゴを占有して食べるのと同じように。
「当人のもの」が仮に「当人の占有物」という意味だったとすればゴリラでも同じであって当たり前の話ですから、やはり「当人の所有物」という意味なのでしょう。
インディアンが果実や鹿肉を食べるために「所有」する必要は全くありません。
労働を加えたら所有できる?
大地と、人間より下位の被造物はみな、万人の共有物である。*7
はい。
先ほども伺いました。
一方、個々の人間は身体という財産を所有している。本人を除けば、何人もこれに対する権利を持たない。身体の労働と両手の作業は、当然のことながら本人のものと言える。
まぁ、そう言ってもいいと思います。
何かを、それを取り巻く自然状態の中から取り出すとする。取り出された物には、人間の労働が混入し、その人間のものが付加されたことになる。その結果、取り出された物は、取り出した人間の所有に帰する。
万人の共有物に、労働を加えるとその人の所有物になる?
それはちょっとおかしいんじゃないですかね。
公園のベンチは私有できるか
たとえば、公園にあるベンチは住民の共有物ですが、このベンチにペンキを塗るという労働を加えたら、ベンチを所有できるでしょうか。
ベンチに座ろうとする人から使用料を徴収する正当な権利を、ペンキを塗るという労働によって得ることが出来るでしょうか。
出来ませんよね。
「ベンチはそもそも自然物ではない。自然から木が取り出されて所有され、ベンチが作られる。しかる後に共有物にされたのだろう」
なるほど。
労働で共有物が個人の所有物になるのは、自然から取り出される時だけってことですか。
「そうだ」
では、自生の芋を掘ることを考えましょう。
掘って洗った芋はだれのもの?
D氏という人が1分間の労働で芋を掘り出し、W氏が1分間の労働でその芋から土を落として洗ったとします。
D氏もW氏も芋に1分間の労働を加えましたが、この芋はD氏の所有物になるわけですね?
「そうなるな」
どうしてW氏は芋に対する権利を得られないのでしょう。
「芋を洗うと芋の価値が増加するだろう。その増加分だけは、W氏のものになる」
……。
えーと、土に埋まった状態でも、芋にはそれ自体、価値がありますよね。
価値がゼロってことはないはずです。
「確かに、ゼロではないな」
その芋自体の価値が、どうして丸ごとD氏のものになって、W氏には全く権利が無いのでしょうか。
「大地の産物の価値は、その大部分を生み出しているのは人間の労働なのだ。自然界に由来する部分は高が知れている」*8
芋自体の価値は無視できるほど小さいってことですか?
そんなわけないと思いますけどね。
蜂蜜で考えてみましょうか。
蜂蜜の価値は誰が作った?
H氏という人がミツバチの巣を取ってきて蜂蜜を取り出したら、その蜂蜜はH氏の所有物になるわけですよね。
たくさんのミツバチが長い時間をかけて作った蜂蜜を、人間であるH氏がタダ取りしたように私には思えるのですが、どうですかね。
蜂蜜の価値の大半は人間の労働が生み出していて、ミツバチの寄与は無視できるほど小さいと思いますか?
もしそう思うなら、ミツバチの助けを借りずに人間の労働だけで蜂蜜を作ればいいんじゃないですかね。
高が知れてるんでしょう?
「自然の恵みは神が人間のために用意したものだから、タダで利用していいのだ」
そうだったとしても、蜂蜜それ自体の価値が無視できるほど小さいとは到底言えないでしょう。
ロックさん、神の恵みというものを舐めすぎじゃないですか?
「……」
次に、土地の所有についてお聞きします。
人を雇って開墾した土地は誰のもの?
ロックさんのロジックだと、土地に対して労働を加えて開墾すると、その土地を所有できるんですよね。
「そうだ。開墾という労働によって土地の生産性を飛躍的に増大させるのだから、その功績によって土地の所有権を得る」
では、人を雇って土地を開墾させた場合にはどうなるのでしょう。
たとえば、A氏がB氏を雇って、ある土地を開墾させたとします。
土地に労働に加えたのはB氏なのですから、土地の生産性向上に貢献したのはB氏です。
この功績が所有の根拠であるなら、この土地はB氏の所有物になっても良いのではないですか?
A氏は全く労働していないのに、土地がA氏の所有物になるのは道理に合わないでしょう。
「……」
何が持つ者と持たざる者を分けるのか
A氏とB氏は何が違ったのでしょうか。
A氏には銀行を経営する友人が居て、開墾するのに必要な資金を借り入れることが出来ました。
資金の使途は主に開墾中のB氏の食糧であり、A氏自身の食糧にも費やされます。
一方B氏にはそういったコネはないため開墾という事業を自身で始めることが出来ず、雇われて食糧を得るしかありませんでした。
つまり、A氏にはコネがあったおかげで資金調達して開墾事業が出来て、その結果土地を所有することが出来たのに対し、B氏にはコネが無かったために土地を所有することが出来ず、土地を持たない無産者になったわけです。
銀行家にコネがあることが、所有を正当化する理由になるでしょうか?
「コネがあったというのは君の作り話だろう。銀行がA氏に資金を貸したのはおそらく、A氏に信用があってB氏には無かったからだ」
信用ですか。
信用があれば、労働をしなくても土地を所有することができ、信用が無ければ労働しても土地を所有できないと。
所有権の根拠は労働ではなく信用だということでいいですか?
だいぶ話が変わってますけど。
「所有権の根拠は労働だ。その根拠となる労働を、A氏はB氏から買ったのだ。だからB氏の労働はA氏の所有物となり、土地の所有権もA氏のものとなる」
ははぁ。
労働の売買は正当な行為か?
所有権の根拠となる労働は、売買できるんですね。
実際、たしかに労働は売買されてますよね。
でもロックさん、こんな風に言ってましたよね。
個々の人間は身体という財産を所有している。本人を除けば、何人もこれに対する権利を持たない。身体の労働と両手の作業は、当然のことながら本人のものと言える。
そうすると、B氏の労働はB氏本人のもので、A氏はこれに対する権利を持たないんですよね。
何かを、それを取り巻く自然状態の中から取り出すとする。取り出された物には、人間の労働が混入し、その人間のものが付加されたことになる。その結果、取り出された物は、取り出した人間の所有に帰する。
B氏が開墾した土地には、B氏のものが付加されたことになり、その結果、土地はB氏の所有に帰するわけですよね。
やはり、土地はB氏の所有物にならなければおかしいですよ。
A氏がB氏に金銭を渡して開墾を命じたのかも知れませんが、所有の根拠となるB氏の労働はB氏本人のものであって、A氏はこれに対する権利を持たないんですから。
ロックさんの論理だと、やはり開墾した土地はB氏の所有物にならなければおかしいですよ。
「それは屁理屈というものだ。労働は実際に売買されるし、それは正当な取引だ。B氏は自分の労働の所有権を、金銭と引き換えにA氏に正当に譲り渡したのだ」
そうですかねぇ。
銀行に選ばれた者が強者となる
B氏は、自分の労働を売らずに行使すれば土地を所有できたのに、なぜA氏に売らなければならなかったんでしょう。
それは、たまたまB氏はお金を調達できなくて、A氏はお金を調達できたという、それだけの違いですよね。
日々の食糧を得るために、やむなく労働を売らざるを得なかったわけです。
銀行は、A氏に貸すかB氏に貸すかを選ぶことが出来ました。
B氏に貸せばA氏を雇って開墾させ、土地はB氏の所有物になったんですよね。
どちらに貸すにせよ、銀行がお金を貸した側の立場が強くなり、相手側の立場が弱くなりますよね。
立場の強い者が、立場の弱い者を労働させて、自分は労働せずに土地の所有権を得る、と。
これは正当な行為と言えるんですかね。
私には立場の違いを利用した脅迫の類いに見えるんですが。
「……」
有能な人は所有者になれない?
なぜ銀行はA氏に貸したんでしょうか。
「さっきも言った。A氏に信用があってB氏に信用が無かったからだ」
それは具体的に言うと、A氏にお金を貸せば開墾が成功して、お金が返済されると判断したということですか?
「そういうことだ」
A氏はB氏に労働させて土地を開墾するプランを銀行に提示し、B氏はA氏に労働させて土地を開墾するプランを銀行に提示したとしましょう。
この場合、銀行はB氏のプランを却下し、A氏のプランを採用したわけですね?
「そうだ」
だとすると、B氏には土地を開墾するだけの能力があると銀行は判断して、A氏には開墾の能力が無い、もしくはあるかどうか怪しいと銀行は判断したわけですよね。
つまり、A氏は自らの無能力ゆえに土地の所有者になることができ、B氏は自らの有能さのゆえに無産者になったのです。
これはどう考えてもおかしな話ではありませんか?
「……」
おかしな点は他にもありますよ。
続けていいですか?
「また今度にしてくれないか」
分かりました。
お忙しいところ、ありがとうございました。
(続くかも)
*1:統治二論(あるいは市民政府二論)という本の第二論で論じられています。「市民政府論」という書名の訳書は統治二論の第二論だけを収録していることが多いようです。
*2:市民政府論26節より引用。以下も同様。
*3:原文は以下。“専有する”は"appropriate"の訳語でした。
yet being given for the use of men, there must of necessity be a means to appropriate them some way or other before they can be of any use or at all beneficial to any particular man.
(その後で初めて、大地の恵みは特定の人にとって有用なもの、あるいは多少なりとも有益なものとなる。)
*4:原文は以下。“当人のもの”は"his"の訳語でした。
The fruit or venison which nourishes the wild Indian, who knows no enclosure, and is still a tenant in common, must be his,
*5:3節より。
*6:and so his, i.e., a part of him, that another can no longer have any right to it, before it can do any good for the support of his life.
*7:27節より。以下も同様。
*8:この趣旨のことは28節、43節に記述されています。