経済学を疑え!

お金とは一体何なのか?学校で教えられる経済学にウソは無いのか?真実をとことん追求するブログです。

あえて言おう、経済学はクソであると

経済学を批判しよう

最初にこの記事で何をしたいのかを書いておこう。

私のやりたいことは、既存の経済学の批判だ。

経済学と言ってもいろいろあるが、私が批判したいのはアダム・スミス国富論を書くことによって始まった経済学だ。

スミスが創始した経済学のことを、ここではスミス経済学と呼ぶことにする。

スミス経済学は後に続く大勢の経済学者たちによって様々な発展を遂げているが、その正当な後継者は新古典派と呼ばれる学派だと言って良い。

スミス経済学は進化し今では新古典派と名乗っているが、その中核にある教義は変わっていない。*1

その教義とは、各人が私的な利益を追求すれば社会全体の利益が達成されるというものだ。

シンプルに言えば「強欲は善」ということになる。*2

この「強欲は善」なる教義を中核に据えているスミス経済学を批判したい。

 

 

私たちの中の「強欲は善」思想

貴方は「強欲は善だって?悪に決まってるだろう」と思うだろうか。

もちろん強欲は七つの大罪の一つでもあることだし、善か悪かと問われれば悪だと答える人が多いだろう。

しかし、私たちの心の中には「強欲は善」思想が深く根付いている。

企業が利益を追求することは当然だと思っているし、大きな利益を出している企業は良い企業だと私たちは考える。

「10億円の利益なら良いが、100億円も利益を出すなんてやりすぎだ」などと言う人はいない。

利益は大きければ大きいほど良い、と私たちは思っている。

労働者に低賃金でサービス残業をさせて大きな利益を出したのだとしても、利益の大きさだけを見て「素晴らしい」と評価してしまう。

私たちの心の中に「強欲は善」思想が深く染みこんでいることを、まずは認める必要があろう。

私たちは知らず知らずのうちに、スミス経済学による洗脳を受けている。

 

この記事の構成

この記事の構成を示しておこう。

前節までが問題の提起だ。

私は「強欲は善」とするスミス経済学を批判したい。

ここからの手順は以下の通り。

まず、経済の基本単位は取引だということを説明する。

説明というよりは提案なのだが、きっと同意してもらえるだろう。

次に、取引にはイーブンな取引と搾取的な取引があることを説明する。

そして、スミス経済学は搾取的な取引(=搾取)を肯定していることを指摘し、搾取の追求がはたして社会的な利益をもたらすのか否かを考える。

これ以降、新古典派を含むスミス経済学のことを単に経済学と書く。

ここまでスミス経済学という言葉を使ったのは、ケインズ経済学やマルクス経済学、行動経済学などは私の批判の対象ではないということを分かりやすくするためだ。

 

経済の基本単位は何か

マルクス資本論の冒頭で次のように書いている。

資本主義的生産様式の支配的な社会の富は、『巨大な商品集積』としてあらわれ、個々の商品はこの富の基本形態としてあらわれる。

したがってわれわれの研究は、商品の分析をもって始まる。

要するに、富は商品が集まったものだから、商品の分析から始めようと言っているのだ。

そうだとすると、マルクスは富というものを分析したかったのだろうか。

そうではないだろう。

マルクスは資本主義社会の経済(=資本制経済)を分析したかったのだ。

では、資本制経済の基本単位と呼べるものはなんだろうか。

仮に人体を分析しようとしているのであれば、その基本単位は細胞だと言って良いだろう。

マルクスっぽく言えば、人体は細胞の巨大な集積として現れる。

では、資本制経済を分析しようとする場合には、細胞に当たるものはなんだろうか。

それは“取引”である。

ここで言う取引とは、簿記で言うところの取引だ。

商品を買ったり売ったりすれば取引だし、賃金を払って労働力を買うことも、金銭の貸し借りも取引だ。*3

「企業の経済は巨大な取引の集積として現れる」と言えば、異論はあるまい。

ある企業の一年間の取引をある方法で集計すれば損益計算書という財務諸表になるし、バランスシートも取引を集計して作るものなのだから。

日々行われる数多くの取引、それ自体が企業の経済活動だと言える。

 

イーブンな取引と搾取的な取引

取引の中で主要なものは商品の売買、つまり商品と金銭とを交換するという取引だ。

この取引では、取引を行う二者の合意によって取引価格が決められる。*4

この取引価格が高ければ売り手にとって得で買い手にとって損だし、取引価格が低ければその逆だ。

一方にとって利益的でもう一方にとって損な取引価格での取引を、搾取的な取引と呼ぶことにしよう。

たとえば、100円で仕入れた商品を50円という安値で売らされたら、買い手が得をする搾取的な取引だ。

逆に、100円で仕入れた商品を1000円という高値で買わせることが出来たら、売り手が得をする搾取的な取引だ。

これらに対し、一方だけが得をするのはなく、双方が納得できる丁度良い取引価格で行われる取引は、イーブンな取引と呼ぶことにしよう。*5

取引には搾取的な取引とイーブンな取引があるはずだ。

 

取引価格をめぐる力比べ

買い手も売り手もできるだけ得をしたい、損をしたくないと思っているのだから、取引価格をめぐっては綱引きが行われる。

勝つのは力の強い方だ。*6

力というのは具体的には、暴力、立場の強さ、情報力、資金力、知力などである。

例えば、経営する飲食店にヤクザが来て「うちからおしぼりを買え」と言われれば、高いおしぼりを買わされることになるかも知れない。

これが搾取的な取引であることは明白だろう。

あるいは、自動車メーカーの下請け企業はメーカーに対して立場が弱く、不当に安い取引価格を押しつけられても飲まざるを得ない。

あるいは、商品の取引価格の相場を知らない情報弱者がぼったくられることは良くある。

資金繰りが苦しい経営者が高利の借金に手を出して搾取されることも良くある。

科学的な知識に欠ける者は、トンデモな商品に騙されて払う必要の無い金を払ってしまう。

要するに、強者が弱者に搾取的な取引を押しつけ、搾取しているということだ。

私たちは弱肉強食の世界に生きている。

 

経済学の見解

取引には搾取的な取引があると私が主張したら、経済学はどう答えるだろうか。

まず、価格は需要と供給で決まるのだから、自動的にイーブンな価格になるのだ、と言うだろう。

確かにそうなることもあるが、それは競争原理(市場原理)が十分に働いているという前提での話だ。

市場が独占されているようなケースではこの前提は成り立たないし、それは経済学も認めている。

しかし経済学は、独占市場でぼったくり価格をつけて利潤を得ることを“搾取”とは表現しない。

市場を独占していたら価格を高くして利潤を最大化する(=ぼったくる)のは当然だよね、という認識なのだ。

それはそうだろう、私的な利益を追求すれば社会的な利益が達成される(=強欲は善)という想定なのだから。

しかし、経済学が「私的な利益の追求によって社会的な利益が達成される」と言うのは「市場が適切に機能すれば」という前提での話であり、独占市場の場合は当てはまらない。

独占市場においては「強欲は善」とは言えないのだから、ぼったくり価格で売ることは搾取的な取引価格の押しつけであり、搾取だと言わねばならない。

経済学がそれを言わないのはゴマカシだろう。

 

経済学は善悪を判断しない?

経済学者は次のように言うだろう。

「経済学は善悪を判断しないのだ」と。

善悪を判断するのは法律や制度であり、もし独占が悪いのならそれを禁止する法律を作れば良い、経済学はそれに関知しない、という立場だ。

しかしそれは裏を返せば、「違法にならない限りどんな手段で金儲けしても良い」と言っているに等しい。

それはそうだろう、なにしろ「強欲は善」なのだから。*7

実際、企業は違法にならない限り利益のために手段を選ばないし、法の抜け穴を見つければそれを利用する。

政治に口を出して搾取しやすいルールや仕組みを作ろうとすることもある。

経済学はそのような行為を黙認し、暗に推奨しているとさえ言える。

経済学は搾取を肯定しているのだ。

 

搾取の追求は社会に利益をもたらすのか

力の強い者が弱者に搾取的な取引を押しつけて搾取する、そのような方法で利益を追求することは、果たして社会に利益をもらたすのだろうか。

「そんなわけないだろう」と雑に言い切ってこの記事を終えても良いのだが、少し考えてみよう。

強者による弱者の搾取を放任すれば、強者はより強く、弱者はより弱くなる。

いわゆる格差の拡大が起きる。

弱者がさらに弱くなっていくと、自分が生きるだけで精一杯になってしまう。

子供を産み育てるための資金を工面できず、子供を作らない人、そもそも結婚をしない人が増えていくだろう。

ひどい場合には、自分一人が生きていくこともままならないかも知れない。

もしも、こういった弱者は子供を産むべきでない、あるいは弱者は生きる価値が無い、弱者が淘汰されていくことで社会はより良くなっていくのだと考えるのであれば、「強欲は善」と言えるだろう。

強者が利益を追求することで弱者が死に絶えていくのだから。

 

強者による弱者からの搾取を正当化する学問、それが経済学だ。

あえて言おう!経済学はクソであると!

 

 

*1:だからこそ正当な後継者なのだが。

*2:行き過ぎた単純化だと思うだろうか。利益の追求に上限を定めていない以上、可能な限り最大限の利益を追求して良いということだろう。それは強欲と言い換えて良いはずだ。「利益を追求しても良いけど、ほどほどにね」などと経済学者が言っているのを貴方は聞いたことがあるだろうか?

*3:火事で建物が焼失したとか、金銭を盗まれたということも簿記では取引として扱う。

*4:一方が取引価格を決め、もう一方がその取引価格での取引に応じるか否かを決める、という形になることが多いが、それも二者が合意していることに変わりない。

*5:双方が納得したとしても、一方が騙されている場合は搾取的な取引だ。

*6:イーブンな取引になるのは双方の力が拮抗している時か、競争原理(市場原理)が十分に働いている時だけだ。

*7:「強欲は善」も善悪の判断であり、経済学の主張は既に自己矛盾しているのだが。