一橋大学の経済学者、齊藤誠教授は「日銀券は日銀が発行する預金証書である」と主張している。
これは妥当な主張だろうか。
齊藤教授が執筆した「なぜ、無制限の金融緩和が私たちの経済社会にとって有害なのか?」というパンフレットから引用してみよう。
日銀の預金には、日銀券(紙幣)と準備預金という2つのタイプがある。「紙幣が預金だなんて!」と驚かれるかもしれないが、日銀券は、日銀が発行した歴とした預金証書である。日銀券には金利も支払われないし、満期も設定されていないが、日常の経済取引に支払い手段(交換媒体)として用いることができる。家計や企業は、支払手段としての利便性に魅せられて日銀券を保有するのである。
後半部分には特に異論は無いが、日銀券は預金証書だという主張には大きな違和感を感じる。
なぜなら、日銀券を日銀に持って行っても何かと交換してもらえるわけではないからだ。
では、齊藤教授は何をもってして日銀券が預金証書だと言うのだろうか。
そのヒントは教授の最近の著作である「父が息子に語るマクロ経済学」にあった。
日銀券が預金証書だと言える理由を、父親が息子に説明する形で記述している。
父親からの説明を受けた息子のセリフを以下に引用しよう。
息子:少し分かってきた。等価交換の連鎖だね。
僕と民間銀行の間では、千円札と千円相当の銀行預金の等価交換。
民間銀行と日銀の間では、千円札と千円相当の日銀当座預金の等価交換。
さらに、民間銀行と日銀の間では、千円相当の日銀当座と千円相当の国債の等価交換。
まとめると、
千円札 ⇔ 千円相当の民間銀行預金
⇔ 千円相当の日銀当座預金
⇔ 千円相当の国債
となるね。
何を言っているのかと言うと、千円札を銀行に預金し、さらのその千円札を銀行が日銀に預金し、その千円分の日銀当座預金で日銀が保有する国債を千円分買えば、日銀券という預金証書で日銀から資産を引き出したことになると言うのである。
さらに、(この部分は書かれていないのだが)銀行が買い取った国債を預金者が預金で買い取れば、千円札で日銀から千円分の国債を引き出して手に入れたことになる。
なるほど、確かに日銀券は預金証書と言えそうだ。
だが、ちょっと待って欲しい。
国債と言えばしっかりとした資産のような気がしてしまうが、金や銀とは違って本質的にはペーパーマネーに過ぎない。
国債によって何が手に入るのかをきちんと吟味する必要がある。
少し考えれば分かることだが、国債が満期を迎えた時に手に入るのは日銀券でしかないのである。
つまり、国債というのは言い換えれば「日銀券交換券」に過ぎないのだ(金利はわずかなのでここでは無視する)。
預金証書である日銀券を日銀に持って行って「預金を引き出したい」と言った時に、「はい、どうぞ」と日銀券引換券を渡されたとしたら、貴方は納得できるだろうか。
普通の銀行で言い換えるなら、預金証書を銀行に持って行って「預金を引き出したい」と言った時に、「はい、どうぞ」と預金証書引換券を渡されるようなものである。
もっと分かりやすくカジノで例えるなら、たくさん稼いだチップを窓口に渡して「換金を」と言ったら、チップ交換券を渡されて現金は貰えないようなものである。
私なら「馬鹿にするな!」と叫んで激怒するだろう。
貴方も同様ではないだろうか。
結局のところ、日銀券で日銀から何か意味のある資産を引き出すことは出来ないのだ。
従って、日銀券が預金証書であるとは言えない。
百歩譲って日銀券が預金証書であるとするならば、それは「何も引き出すことの出来ない預金証書」なのである。
また、日銀券の価値を裏付けるものは日銀が保有する国債だと考える人が齊藤教授をはじめ一定数いるようだが、当然のことながら日銀券交換券では日銀券の価値を裏付けることは出来ない。
(私が牛乳瓶のフタを通貨として発行しようとした時、その価値の裏付けが牛乳瓶のフタ交換券だったとしたら、フタ交換券はフタの通貨としての価値を裏付けていると言えるだろうか?)
つまり、日銀が保有する国債は日銀券の価値の裏付けにはならないのである。