チケットの転売行為が「泥棒」である理由
はじめに
「チケット転売は世の中の役に立っていない」「チケットの転売屋は何も生産していない」というのがこの記事の結論です。(もちろんチケット転売が泥棒である理由も説明します)
普通の感覚を持った人は「そんなの当たり前だ」と言うと思いますが、「チケット転売は世の中の役に立っている」と主張する人もいるため、この当たり前のことをイチから説明しなければなりません。
誰がそんなことを言うのかと言えば、市場原理主義を信じる人、特に経済学者です。
ネットで検索すればこんな記事が見つかります。
これらの記事を引用したりしなかったりしながら、チケット転売が世の中の役に立つかどうか検討しましょう。
なお、本記事ではチケット転売行為の法律・ルールに照らした妥当性や、倫理的な善悪の話をするつもりはありません。
単純に世の中の役に立つかどうかが論点です。
値付けに失敗しているわけではない
高橋洋一氏はこう言います。
そもそも転売が起きるのは、定価が市場価値を表していないからだ。コンサート主催者側の事情によって定価が決められているが、コンサートの市場価値はお客であるファンの主観的な評価で決まってくる。主催者がその市場を読み違えたことが問題である。
興行の主催者がチケットの市場価値を読み違えたから、変に安い価格でチケットを売っているのでしょうか?
そうではありません。
もっと高い価格でも売れることは、主催者側は百も承知です。
主催者がチケットをその価格にしたのは、アホだから値付けに失敗したのではなく、なんらかの意図があってそうしているのです。
どんな意図なのかを詳しく論じることはしませんが、ポイントを一つ挙げれば「アーティストとファンの関係は一度限りで終わるものではない」ということです。
例えばある女性が交際を検討している男性からデートの誘いを受けた時、「交通費プラス一万円出すなら受ける。出せないなら別の人を探せば?」などと価格交渉しませんよね。
これが一夜限りの関係なら「ホテル代別で三万円。出せないなら別の人を探せば?」などと交渉して、妥当な価格を探ることができるでしょう。
アーティストとファンの関係は一夜限りではありませんから、今後の関係も考慮に入れた上で価格を決めているのです。
主催者側の意図を全く考えずに「市場で価格を決めれば全て解決」と主張する経済学者はアホと言っていいでしょう。*1
二種類の「本当に欲しい人」
チケット転売問題で面白いのは、転売に反対する人も容認する人も同じ「本当に欲しい人」という言葉を使って自説を正当化することです。
転売反対派は、「チケットが高額で転売されてしまうことで本当に欲しい人が手に入れられなくなる」と言います。
一方で容認派は、「高額でも買いたい本当に欲しい人が手に入れられるのだから良いことだ」と言います。
反対派と容認派で「本当に欲しい人」の意味が違っているのですね。
これはどういうことなのか?
チケットを買うのは実際に興行を見たい人と転売屋です。
実際に見たくてチケットを買う人のことを実需者と呼ぶことにしましょう。
実需者は全員が「本当に欲しい人」です。
「本当は大して見たくないんだけどねー」と言いながらチケットを買う実需者は居ません。
転売反対派の言う「本当に欲しい人」は実需者全員のことであり、特にチケットに割く予算の少ない人に焦点を当てています。
供給されるチケットの一部を転売屋が確保することで、チケットを定価で買いたい実需者の手に入る確率が下がってしまうことを反対派は問題視しているわけです。
一方、容認派の言う「本当に欲しい人」はチケットに割く予算の多い実需者のことです。
予算のより多い実需者ほど確実にチケットを手に入れられることを、容認派は「正しいこと」と見ています。
チケット転売によって生産物は増えない
チケットが高額で転売された時、生産物が増えたと考えるべきなのでしょうか?
経済学的には増えたことになります。
たとえば、60円で仕入れた林檎を100円で売れば40円分の付加価値が生産されたことになります。
以前のブログ記事でも書いたように、10万円で仕入れた英会話教材を40万円で売れば30万円分だけGDPが増大します。
しかし実際には、この転売行為によって新たな価値は生じてませんよね。
4倍の値段で買っても教材それ自体に何の変化も生じません。
4倍速く学べるようにもならないし、4倍分かりやすくもならないし、学んだ時に4倍の幸せを感じるわけでもありません。
単純な転売によって価値は増えないのです。*2
チケットの場合も同じことが言えます。
客席数100での公演を1回だけやるとして、チケットが定価2000円で先着100人の実需者に売られた場合と、転売屋がチケット100枚を確保して予算の多い実需者100人が6000円で買った場合とを比較してみましょう。
主催者側が提供するものは、100席の公演1回であることに変わりはありません。
チケットの末端価格が3倍になったことでアーティストが3倍のパフォーマンスを発揮することもありません。
では、公演を見る側が得る効用(幸せ)はどうでしょうか。
3倍の価格でチケットを買った観客は3倍の幸福や快感を感じるのでしょうか。
これも違います。
観客が得る効用はチケットを買った価格とは無関係であり、個々の実需者で大差はありません。
3倍の価格でチケットを買う人は、定価でしか買えない人の3倍幸せになれるから3倍払ったわけではないのです。
定価でしか買えない人の方が得る効用が大きいケースだってあるでしょう。
チケットの末端価格が定価の何倍になろうが、観客が得る効用の総量は大して変わりません。
並ばずにチケットが買えるのは便利だが……
しかし転売容認派はこう言うでしょう。
「転売屋からチケットを買った人は列に並ぶなどの労力を払うことなくチケットを手に入れたのだから、楽にチケットを入手できるという便利なサービスが提供されたのだ」と。
たしかに、そう言われればそんなような気もします。
しかし転売屋が何かを生産したとも思えません。
よく考えてみましょう。
転売屋は実需者でないのにチケットを確保しています。
自分が需要しているのではないのに商品を確保することを「無需確保」と呼ぶことにしましょう。
無需確保は正当な行為でしょうか?*3
「正当な行為だ。無需確保が不当なのだとしたら、全ての商売が不当だということになってしまう」
はい、その通り。
無需確保は別に不当な行為とは言えません。
しかし転売屋は、チケットを買おうとする実需者がたくさん列に並ぼうとしているのを知った上で、先回りして列に並んでチケットを確保しています。
このような行為を「割り込み無需確保」と呼ぶことにしましょう。
たとえば、コミケ会場に深夜や早朝から並んで人気の同人誌を転売目的で買う行為が割り込み無需確保です。
また、マスクを欲しがる人がたくさんいることを知った上で大量のマスクを仕入れて在庫にする行為も割り込み無需確保と言えます。
これは正当な行為でしょうか?
割り込み無需確保を考える
たとえ話で考えてみましょう。
ある牛丼屋が一日20食限定で、牛丼を100円で売るセールをやったとします。*4
券売機の前に朝から20人ほどの人が並んでいます。
しかし一番前に並んでいたのが転売屋で、100円牛丼の食券を20枚全て買い占めてしまいました。*5
そして後ろを向いてこう言います。
「この食券、一枚200円で買いませんか?」
この行為は世の中の役に立っているのでしょうか。
後から来た人が200円で食券を買ったとして、「並ばずに食券を買うことが出来て助かったよ。君はたしかにプラス100円分のサービスを僕に提供してくれたね。ありがとう」と感謝すべきなのでしょうか?
もし私がこの列に並んでいたら、この転売屋をぶん殴りたくなりますけどね。
臓器移植で考える
次に、臓器移植の順番待ちリストで割り込み無需確保を考えてみましょう。
たとえば心臓の移植が必要でドナーからの提供を待っている患者のリストがあり、A氏~J氏の10人が待っているとします。
次にドナーが現れた時に移植を受ける権利があるのはA氏ですが、実はこのA氏が転売屋で、健康なのに前もってリストに名前を書いていたのでした。*6
この行為は割り込み無需確保に当たります。
A氏は後からやってきた大金持ちのZ氏という患者に、次に移植を受けられる権利を1億円で転売しました。
Z氏は「君のおかげで順番を待たずに移植が受けられるよ。ありがとう」とA氏に感謝します。
A氏は1億円分の価値のあるサービスを作って提供したと言えるのでしょうか?
全くそんなことはありません。
A氏が何も生産していないことは明らかです。
A氏の割り込み無需確保と転売行為が無ければ、次に移植を受けられるのはB氏でした。
仮に、B氏は次の移植を受ければ命が助かるのに、この順番飛ばしによって死んでしまうとしましょう。
そうすると、Z氏はB氏を死なせる代わりに自分が早急な移植を受けられることになります。
つまりこの一連の行為によって何かが生産されたわけではなく、B氏に迷惑をかけて(死なせて)、その代わりにZ氏が効用を得ているのです。
Z氏が1億円を余分に支払うなら、このお金は迷惑料としてB氏に支払われるべきです。*7
この1億円をA氏が受け取るのはおかしな話ですよね。
B氏が受け取るべきお金をA氏が盗んでいるのと同じことです。*8
失権と奪権
100円牛丼の例に戻りましょう。
転売屋が20枚の食券を買い占めた時点で、後ろの19人は100円で牛丼を食べる権利を失います。
このように権利を失うことを失権と呼ぶことにしましょう。
一方、後から来て200円を払って食券を買った人は、100円で牛丼を食べる権利を+100円で買ったのだと言えます。
100円余分に支払うことで(結果として)列に並んでいた誰かを失権させ、その権利を奪ったことになります。
このように権利を奪うことを奪権と呼ぶことにしましょう。
奪権した人が余分に支払うお金は、本来迷惑料として失権した人に支払われるべきものです。
転売屋がこのお金を取るのは泥棒(か詐欺)と同じことです。
チケット転売も泥棒
100席の公演チケットの例に戻りましょう。
転売屋がチケット100枚を割り込み無需確保すると、この転売屋が居なければ先着100名に入れたはずの実需者が失権します。
予算に余裕がある人が2000円+4000円を払って奪権した場合、追加の4000円は迷惑料として失権した実需者に支払われるべきです。
この4000円を転売屋が取るのは泥棒です。
結論
チケットの転売屋は何も生産していませんし、世の中の役に立っていません。
割り込み無需確保という行為によって実需者を失権させ、失権した実需者が受け取るべき迷惑料を詐取する泥棒ないし詐欺師だと言えます。
こちらもどうぞ。
*1:高橋洋一氏は市場で価格を決めるオークション方式を推奨しつつ、以下のように留保もしていました。
ただし、コンサートによってはオークションが最適解になると限らない。主催者にとっても、ファンを長期的に育成しようと思えば、低い定価にして、ファンにお得感を与えて、長期的な顧客関係を形成した方が利益になる。
*2:消費者がアクセスしやすい場所に商品を移動して提供する場合はその分だけ価値が増えていると言えます。
*3:ここで言う「正当」は、「世の中の役に立つ何かを提供するために必要」ぐらいの意味です。
*4:もちろんなんらかの意図があって100円で売るのであって、値付けに失敗したのではありません。
*5:一人一枚のみというルールにしないのが悪いというのは反論になりません。友人20人を動員すれば同じことが出来ます。
*6:そんなこと出来るはずない、というのは反論になりません。こういうことがもし出来たとしたら、それは正当な行為かを考えてください。
*7:もちろんB氏の同意は必要です。
*8:順番飛ばしによってB氏が死なない場合は、B氏~J氏の全員が迷惑することになるため、迷惑料もB氏~J氏の全員に支払われるべきです。