国債は借金ではなく政府が作り出す“お金”
はじめに
国債とは何でしょうか。
国の借金?
それは全く違います。
日本という国全体ではむしろ他国に貸し付けているのであり、借金はしていません。*1
政府の借金?
国の借金という答えよりはずっとマシですね。
しかしそれも違うと私は言いたいのです。
今回の記事では、国債は借金ではなく政府が発行する“お金”だということを主張したいと思います。
お金とは何か
まず「お金とは何か」というところから話を始める必要があります。
ほとんどの人は、お金を何か価値のあるモノだと捉えていると思います。
10,000円の価値のあるモノと交換に一万円札を出せばそのモノを買うことが出来るのですから、一万円札は10,000円分の価値のあるモノだと考えるのも当然のことです。
しかし、本当はそうではないのです。
一万円札それ自体には価値はありません。
より正確に言うなら、一万円札には使用価値がありません。
一万円札を食べることも出来ないし、何か便利な道具として使うことも出来ませんよね。
せいぜい、折り紙のようにして遊ぶか、丸めてドラッグを吸うかぐらいでしょう。
文字通り、一万円札は紙切れにすぎないわけです。
それにもかかわらず、一万円札は10,000円分の価値があるモノやサービスと交換することが出来ますよね。
これをどう捉えればいいのでしょう。
一万円札には購買力(=交換価値)がある
使用価値のあるモノと交換することが出来ることを、交換価値があると言います。
紙幣*2には交換価値があるわけです。
「一万円札には使用価値が無いが交換価値はある」
こう言えば、素直に納得できるでしょう。
私は使用価値のことを単に「価値」、交換価値のことを「購買力」と呼びます。
つまり、「一万円札には価値が無いが購買力はある」というわけです。
なぜこのような言い換えをするのかと言うと、「交換価値」という言葉を使うと「紙幣にはやはり何らかの価値がある」という印象を与えてしまうためです。
ただの紙切れなのに価値が生じるのはどうしてだろう、どんな魔法が使われているのだろうと思ってしまうでしょう。
違うんです。
紙幣に価値はありません。
ではなぜ価値が無いはずの紙幣で買い物が出来るのでしょうか。
なぜ紙幣で買い物が出来るのか
この問いに対する答えは色々ありますが、私ならまずこう答えます。
「我々はそういうルールのゲームをやっているから」です。
紙幣でモノが買えるのは、そういうルールのゲームだからです。
モノポリーというゲームで考えると、ゲーム内で使っている紙幣に価値が無いことは誰でも分かりますよね。
それでもその紙幣で土地や会社を買うことが出来る(つまり紙幣に購買力がある)のは、そういうルールだからです。
我々が使っている日銀券に価値が無いのに購買力があるのも、そういうルールのゲームをやっているからです。
日銀券に本当に価値があるかのように“錯覚”してしまうのは、我々が物心ついた時にはゲームの中にいて、死ぬまでゲームの中から出られないからです。*3
仮に貴方が物心ついた時にモノポリーのゲーム世界の中にいて、死ぬまでゲームの外に出ることは出来ないとしましょう。
その状況で、ゲーム内にいる親や教師にゲームのやり方を教えられたとしたら、使われている紙幣には価値があると信じたでしょう。
そういうことなんです。
紙幣に価値はありませんが、それにもかかわらず、紙幣には購買力があります。
そういうルールだからです。
ルールは強制されているのか
ルールを文言にすればこんな具合です。
「あなたが提供するモノやサービス、労働と引き替えに日銀券(という紙切れ)を受け取りなさい」
私たちは、このルールをムリヤリ強制されているのでしょうか。
嫌々ながら、ルールだから仕方なく紙切れを受け取っているのでしょうか。
違いますよね。
私たちは喜んで日銀券を受け取ります。
価値の無い紙切れだとは思ってなくて、確かに10,000円分の価値が一万円札にはあると考えているんですね。
なぜ私たちは紙幣の“価値”を信じるのか
なぜ私たちは、ルールによって強制されていると意識せずに、一万円札を喜んで受け取るのでしょう。
それは、一万円札を持っていればいつでも10,000円分の価値があるモノやサービスと交換できると信じているからですよね。
言い換えると、一万円札の購買力が近い将来、急に半分になったりゼロになったりせず、同じぐらいの購買力を持ち続けると信じているからです。
なぜそう信じられるのか。
今までもそうだったという実績があるから、これからもそうだろうと信じている部分もあります。
また、皆がそうだと信じているから、自分もそう信じられるということもあります。
要するに、「紙幣には価値がある」というのは共同幻想(フィクション)なのですね。*4
実際には紙幣に価値(使用価値)はありません。
それに対し、「紙幣には購買力がある」というのはルールであり、共同幻想です。*5
日銀は購買力を作り出せる
日本の中央銀行である日本銀行は、日銀券という(価値は無いが)購買力のある紙切れを作り出すことが出来ます。
なぜそんなことが出来るのかと言えば、そういうルールだからです。
また、日本銀行は日銀当座預金という“日銀券と等価なお金”を作り出すことも出来ます。
どのように作るかと言うと、当座預金の残高という数字を増やすことで作り出すのです。
前回の記事の表現を使うと、「ゲームセンターの店主がゲーム機の中にあるボタンを押してクレジットを増やすようにして」日銀当座預金というお金を作っているということです。
政府も購買力を作り出せる
一方、政府(中央政府)も購買力を作り出すことが出来ます。
分かりやすいのは硬貨ですね。
五百円玉を一枚発行すると、30円分ほどしか価値が無いのに500円分の購買力がある金属片を作り出すことが出来ます。
素材の価値を無視すれば、日銀券を発行するのと全く同じことです。
政府は硬貨の他にも、購買力のあるものを作ることが出来ます。
それは国債です。
国債は、それ自体には価値が無いが購買力があるという点で、日銀券(や日銀当座預金)と等価な紙切れ*6です。
国債はそのまま買い物には使えませんが、いつでも日銀券と交換できますから、国債と日銀券は等価な紙切れなのです。*7
額面百万円の国債は百万円札のようなもので、これと一万円札100枚との交換は両替だと言えます。
統合政府が作り出せる購買力
中央銀行(日銀)と政府を合わせて統合政府と呼ぶことにすると、統合政府は(価値は無いが)購買力のあるものを数種類作り出すことが出来ます。
上記のものは全て等価ですので、お互いに交換することが出来ます。
政府が財政支出をする際には、政府が国庫短期証券(国債の一種)という形で購買力を作り出し、日銀が日銀当座預金という形で購買力を作り出し、この二つを交換します。*8
これによって政府は政府預金口座に残高を得て、この政府預金で財政支出がなされるわけです。*9
日銀券、日銀当座預金、硬貨の3つを貨幣と呼ぶことにしましょう。
国債は貨幣と等価ですから、貨幣等価物と呼ぶことにします。
まとめると「統合政府は貨幣または貨幣等価物という形で購買力を作り出すことができる」ということになります。
日銀が作る購買力は全てクレジット
先ほど、日銀は日銀当座預金というお金を「ゲーセンの店主がゲーム機の中のボタンを押してクレジットを増やすようにして」作っているという話をしました。
つまり、日銀当座預金というのはゲーム機のクレジットと同じようなものなんです。
ゲーム機のクレジットは数字にすぎないですよね。
それと同様に、日銀当座預金も数字にすぎないのです。
さらに、日銀券というのは日銀当座預金という数字の一部を紙切れに移したものです。
紙切れに移すことで、数字を手渡しで他の人に渡すことが出来るようになります。
ゲーム機のたとえで言えば、クレジットが1だけ残った状態で帰ることになった客が、店主に頼んで別の日にこのクレジットを使えるように店主のサイン付きでメモを書いてもらったようなものです。*10
このメモは後日店に来て1クレジットに替えることも出来ますし、他の客に手渡して1クレジットの権利を譲渡することも出来ます。
このメモには1クレジットが宿っていると言えるわけです。
同様に、一万円札という紙切れには10,000円分のクレジットが宿っています。
結局、日銀券も日銀当座預金と同様に日銀が作ったクレジットであり、数字にすぎないということです。
政府が作る購買力も全てクレジット
政府が発行する硬貨にも同じことが言えます。
五百円玉を発行する際に政府は、「ゲーセンの店主がクレジットを増やすようにして」500円分のクレジットを作り出し、そのクレジットを即座に金属片に移すということをやっているのです。
ゲーセンのたとえで言うと、店主がメダルを1枚用意して、このメダルに1クレジットを付与したことにするのと同様です。
客がこのメダルを店主に渡せば1クレジットと交換することが出来るのですから、メダル1枚には1クレジットが宿っているわけです。
それと同様に、五百円玉1枚には500円分の(政府が発行した)クレジットが宿っています。
つまり、五百円玉を始めとする硬貨(に宿っている額面分の購買力)も政府が作ったクレジットだと言えます。
また、国債も政府が作るクレジットです。
国債はペーパーレス化されていて券面はありませんから、日銀当座預金と同様に帳簿上の数字にすぎません。
つまり国債もクレジットです。
国債が券面だった時代も同じことです。
日銀券や硬貨と同様に、政府が国債をクレジットとして作ったのと同時に紙切れに載せているのです。
統合政府は購買力を無から作り出せる
日銀は日銀券や日銀当座預金という貨幣を「ゲーセン店主がゲーム機内のボタンでクレジットを増やすようにして」作り出すことが出来ます。
同様に、政府は硬貨という貨幣や国債という貨幣等価物を「ゲーセン店主がゲーム機内のボタンでクレジットを増やすようにして」作り出すことが出来ます。
統合政府は貨幣や国債という形で購買力を無から作り出すことが出来るということです。
無から価値を作り出すことは誰にも出来ませんが、統合政府は無から購買力を作り出す力を持ってるのです。
なぜなら、そういうルールだからです。
国債の償還について
そんなこと言ったって、国債は債務なんだから返済する必要があるだろう、返済しなきゃいけないんだから借金に違いない、という意見もあるでしょう。
国債の返済(償還)はもちろんします。
しかし、何を返済するのでしょうか?
返済するものは貨幣、すなわち統合政府発行の購買力です。
統合政府が、統合政府発行の購買力を渡すにはどうすればいいか。
もちろん、統合政府が購買力を発行して渡せばいいのです。*11
これは返済というよりも、等価物の交換ないし両替です。
統合政府は、我々がイメージしているような「借金の返済」はしないのです。
国債を借金と言うと誤解を生むのであり、借金と呼ぶべきではありません。
まとめ
以上より、国債は借金ではなく政府が発行する“お金”だということになります。
*1:もちろん個々には借金もあるでしょうが、差し引きした合計では貸している側です。
*2:この記事で紙幣と言っているのは全て不換紙幣のことです。
*3:生きているうちにゲームから出ることも不可能ではありません。他人との関わりを絶って山に入り、二度と戻らないと決意した人はゲームから出たと言えるでしょう。その人は日銀券に全く価値が無いことに気づきます。
*4:貨幣がフィクションであることには「サピエンス全史」でユヴァル・ノア・ハラリ氏も言及しています。
*5:ルールが徹底されていることにより共同幻想が成り立っていると言うべきか、共同幻想が成り立っているからルールが守られていると言うべきか。それはどちらでもいいでしょう。
*6:現在では国債は電子化されているため紙切れではありませんが、券面の方がイメージしやすいためこのように表現しています。
*7:もちろん違いはあります。国債には金利が付きますし、期限が来たら日銀券ないし借換債と交換される特約が付いています。
*8:1998年度までは(国庫短期証券の前身である)政府短期証券のほとんどを日銀が引き受けていましたが、1999年度以降は原則的に市場での公募入札方式になりました。しかし日銀と金融機関との間で売買ができる以上、その本質は変わりません。
*9:何かズルいような気がしますか?別にズルくないです。財政支出により受益するのは国民ですから。もし政府や日銀の中に私腹を肥やす人間が居ればズルいですが、それはまた別の話です。
*10:ゲーム機のクレジットは店主がクリアします。
*11:多くの場合、借換債を発行して貨幣と交換し、それで得た貨幣を償還する国債と交換します。
*12:余談になりますが、国債の金利はどうでしょう。国債金利は統合政府が国債保有者に支給するボーナスであり、金利として渡すものは貨幣、つまり統合政府発行の購買力です。やはり、統合政府が購買力を発行して渡すだけのことです。